マトマヤ雑記帳

メモ帳代わり。

フローベール『感情教育』内の穏健共和派と社会共和派

フローベールの『感情教育』は文学的評価のみならず、2月革命前後の社会を描いた歴史的資料としての評価も非常に高いことで有名な小説だ。主人公はフローベール自身がモデルであるフレデリックだが、この記事ではこの小説に出てくる2人の共和派、デュサルディエとセネカルと言う登場人物に焦点を合わせてみたい。

デュサルディエ

感情教育』の登場人物は主人公のフレデリックを始めとして大抵中流以上の階級出身であるが、デュサルディエはその中で例外であって、服飾店勤めの私生児の下層階級の青年だ。「ヘラクレスさながらの屈強な」体を持ち、上から下への暴力を見ては黙っておれず、フランス人らしい(?)恋愛話においても「一人の女性を愛していたいですね。いつまでも」と語るこの純朴で善良な青年は、好印象の持ちにくい人物が大半の『感情教育』において、多くの読者が好感を持てる数少ない人物だ。

それでは、彼の政治的意見というのはどういうものだったのであろうか。二月革命が起こって、革命側に参加したときの彼の言葉を引こう。

 「…なにもかも順調に進んでます。民衆は勝利し、労働者とブルジョワが抱きあっているんだから。ああ、おれが目にしたものを見せてあげたかった!りっぱな人たちだ、ほんとうにすばらしい」

「…共和国宣言がされたんだ!これでみんな幸せになる。さっき新聞記者たちが話しているのを聞いてたら、ポーランドもイタリアも、もうじき解放されるそうじゃありませんか。国王なんてものはいなくなる、そうでしょう。世界じゅうが自由になるんだ、自由に!」

フローベール. 感情教育(下) (光文社古典新訳文庫

 ここで注目すべきは、労働者とブルジョワの一致を喜んでいることだ。デュサルディエのような穏健共和派にとって、両者は平等なフランス人、人間であることには変わりがないことなのだから、こういう感情を抱くのはある種当然なのである。同じ人間同士なのだから、その友愛を阻もうとする存在(国王)がいなくなれば、ともに手を取り合って自由な社会を築き上げることができる…こういう楽観主義が穏健自由派のテーゼである。

しかし残念なことに、この友愛関係は長く続かなかった。穏健自由派がどんどん勢力を失っていき、ブルジョワと労働者の対立は日に日に激しくなっていく。そんな中でデュサルディエは体制側に味方しながらも、相手側、すなわち労働者にも共感を抱き続け、労働者の側につくべきなのではないだろうかと煩悶する。だが最終的に、デュサルディエはブルジョワ主導の秩序党政権を批判しながらも、以下のように言う。

「それでも、希望をうしなっていなければ、誠意をもって事にあたっていれば、なんとか理解しあえるのに。しかし、現状はそうじゃない!労働者だってブルジョワと似たり寄ったりだと思いませんか。つい最近のことだけど、エルブフで火事が起こったとき、労働者は救援活動をことわった。バルベスを貴族あつかいしている情けない連中だっている。石工のナドーを大統領に推す向きもあるけど、あれだって民衆をばかにした話だ。まったく、なんてこった!それなのに、どうしようもない、打つ手がないんです。まわりは敵だらけになった。──なんにも悪いことをしたおぼえはないのに、いつだって胸がつかえてすっきりしない。このままじゃ頭がおかしくなっちまいそうだ。いっそのこと、だれかに殺されたほうがいいと思ってるくらいでね。…」

フローベール. 感情教育(下) (光文社古典新訳文庫

セネカ

セネカルは一言で言ってしまえば社会主義者だ。彼はデュサルディエと人間的には正反対と言ってもいいだろう。理論家で学者肌だが、冷酷で、人間味のない人物だ。例として、セネカルが工場の監督官をしている際の描写を見てみよう。

共和主義者はかれらをきびしく監督した。理論家セネカルの念頭にあるのはもっぱら大衆のことであって、個人にたいしては情け容赦なく接していた。

「民主主義とは放縦な個人主義のことではない。法のもとにおける平等であり、労働の分配であり、ようするに秩序だ」

「人間味ってものを忘れてるよ」フレデリックは言った。

 

 こういった社会主義者セネカルの描写は、なにか後のソ連を代表とする社会主義諸国の現実を予感させるものとして興味深い。

 セネカルは革命中、当然労働者の側に付くが、その最中に投獄たり釈放されるなどする、この最中にフレデリックとの議論において、秩序党=ルイ・ナポレオンの政治は共産主義に向かっていると高く評価して以下のように述べる。

…この共和主義者は大衆の無能ぶりをはげしく批難しさえした。

ロベスピエールは少数派の権利を擁護してルイ十六世を国民公会にひきだし、その結果、民衆を救ったんだ。結果によって手段は正当化される。ときには独裁を必要とすることこともある。専制君主が善政をおこないさえすれば、専制だって大歓迎だ!」

結末

この二人は作中、交わることは殆ど無い。ところが最終盤で衝撃的な邂逅を迎えることになる。引用してみよう。

竜騎兵の突撃するあいまをぬって警官隊が姿を現し、群衆を裏通りへ押しもどした。だが、トルトーニの階段に、遠くからでもすぐわかる大柄な男──デュサルディエだ──が、さながら女像柱のように身じろぎもせずに立ちつくしていた。

先頭に立ってすすむ三角帽を目深にかぶった警官が、剣で威嚇した。

すると、デュサルディエは一歩まえに踏みだして、大声でさけんだ。

「共和国ばんざい!」

デュサルディエは両腕をひろげたまま、あおむけに倒れた。群衆のあいだから恐怖の叫びがあがった。警官は周囲をぐるりと見まわした。フレデリックは啞然とした。警官はセネカルだった。

ここの争いは、おそらくルイ・ナポレオンのクーデターの時の争いであろう。つまりセネカルはボナパルティストとなったことになる。一見セネカルが「転向」したのかと思えるのだが、こうしてまとめてみるとセネカル自身は何もブレていないのがわかるだろう。

実際、ナポレオン三世は「馬上のサンシモン」といわれるように心情的には社会主義者であり、実際彼の治世の後期では社会主義が力を持つようになるのだから、セネカルの見立て自体は正しかったことになる。

結局この革命最大の敗者は穏健共和派、すなわち自由主義者だったのだった。